直感をつい信じてしまう脳

コーヒーをこぼして賠償金ガッポリ、のいきさつ

BS世界のドキュメンタリーで「ホットコーヒー裁判の真相」を見た。

番組は、ドライブスルーのマクドナルドで買ったコーヒーをこぼしてやけどをした人が、マクドナルドを訴えて賠償金を290万ドル得たという話から始まる。

こういう裁判があったと聞いてどう思うだろうか。「難癖をつけて大金をせしめた」と感じたのではないか。番組にもそういう街頭インタビューがいくつも出てくる。「運転中にこぼしたのなら自分が悪いでしょ」「コーヒーが熱いなんて誰でも知ってる」。でも実はそういうことではなかった。

本人が運転していたのではなく停車中の助手席でのできごとだった、マクドナルドのコーヒーの設定温度は約90度と熱湯で、皮膚移植をしなければならないほどの大やけどを負った、原告は賠償金を求めたわけではなく、マクドナルドにコーヒーの温度を下げることを求めたが誠意ある対応がされなかった、マクドナルドには同じようなやけどのケースが今までに数百件報告されていたにもかかわらず対策を講じてこなかったことが裁判でわかった…。

詳しい話を聞けば、それは企業の側が悪いとわかる。しかし一般にはトンデモ判決として知られているようだ。それはなぜか、というのが話のキモになっていく。

この裁判の賠償金は、企業が消費者の安全を守らなかったことに対する「懲罰的賠償金」というもの。賠償額はマクドナルドのコーヒーの売上高をもとに算出された。企業にとってはこの賠償額は大きな負担になるから、コストをかけても消費者のために改革をしていかなければならない。その結果、立場が弱い消費者は守られるというりくつである。ところが企業は賠償金をできるだけ抑えたいから猛烈なロビー活動を行い、懲罰的賠償金の上限額を決める法律を作るよう政府に働きかけた。

番組ではほかにも事例が紹介される。道路わきの電話ボックスに車が突っ込んできて大けがをした人が訴えた相手はなんと電話会社。そしてやはり、多額の懲罰的賠償金を支払う判決が下った。

これもちゃんと知れば変な話ではない。電話ボックスのある場所では車の接触事故がたびたび起きていた、原告は車が向かってくるのを見て逃げようとしたが電話ボックスの扉がすぐに開かなかったなど。

しかし懲罰的賠償金の上限を定めたい立場の人はこういった裁判の結論だけを引き合いに出す。「コーヒーをこぼして訴訟を起こし賠償金をガッポリもらったずるい人がいる」などとメディアでくり返す。そして「こんなばかな話があってはならない」と訴えると、それを聞いた人はなんとなく「そういうことなら」と上限設定に賛成してしまう。いつか自分の身に何かが起きたとき、十分な賠償金が支払われないかもしれないのに。

番組では賠償金の上限額が決まった州で、医療過誤に対して十分な賠償金が支払われない事例も紹介される。そのほかにもいくつか話が出てきて、刺激的なドキュメンタリーだった。

安心して不安がりたい人

上の番組は、アメリカの司法制度を企業の論理がゆがめていると告発するものだった。それとは別に、こんなことを考えた。

トンデモな判決が世の中にまったくないとは思わないが、たぶんほとんどの裁判では十分な審理の結果、常識の範囲に収まる判決が出ているのだろう。一見変な裁判でも、多くは事情を知れば納得がいくのに違いない。しかし人間は一足飛びにトンデモ判決だと思い込んでしまいがちだ。直感に支配され、わかりやすい話にとびついてしまう。これは危険だ。

ホットコーヒー裁判や電話ボックスの話では、人々が「大企業がクレーマーにうまいことやられてしまった」というストーリーを勝手に思い浮かべてしまう。だから真実が伝わりにくいどころか、逆に真実が広まると困る側に利用されてしまったりする。

直感だけをたのみにして結論を出してしまうのはとても危険だ。それをうまく言い当てているツイートがあった。

これは「安心して不安がりたい」という矛盾を指摘している。放射能は目に見えないしにおいもないから、誰でも不安になる。しかしそこで感情に支配され、自分の不安を補強するものを探してしまってはいけない。こういう人はたとえば、震災のがれきに含まれる放射線量が自分の町の土壌より少なくても受け入れに絶対反対だったりする。

ほかにもノルウェーでは犯罪の厳罰化をやめ、逆に刑務所を快適にして社会復帰のための訓練所として整備した。その結果治安がよくなっているそうだ。これも今の日本における一般的な感覚とは逆の話である。

つまりノルウェーでは、刑務所は社会復帰のための訓練場であるととらえられている。「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」はスウェーデン映画だけど、服役囚が私用のパソコンを自由に使い、接見もガラスごしではなくラウンジのようなところでお茶を飲みながら、という様子が出ていた。ノルウェーも似たような状況らしい。

(裁判に「参審員」として参加する)一般市民の多くが、犯罪へと追い込まれていった社会的な背景を目の当たりにすることによって、問題となる状況に置かれることで「誰が犯罪をおかしてもおかしくない」「自分と犯罪者は同じ人間に過ぎない」と思い至るのです。

(…)

「私は凶悪犯罪をおかしてしまった多くの人と会ってきましたが、これまでモンスターのような犯罪者に会ったことはありません。どんな犯罪者でも人間です。生活環境を整えれば必ず立ち直ります」、「犯罪につながるような問題、たとえば貧困や差別、ドラッグなどの問題は、市民も参加して話し合うことが必要なのです。身近な場所で話し合うことによって解決の道が見い出せるのです」

厳罰化が囚人爆発と治安悪化の悪循環つくる - “囚人にやさしい国”ノルウェーからの提言|すくらむ

「更正のために入るはずの刑務所が、逆に悪いことを学ぶ学校になってしまっている」「一般社会から遠ざけられ、塀の中に閉じ込められ、話すことができるのは受刑者同士だけなどという状況は明らかに破壊的」といった話も出てくる。

素朴な感覚では、治安をよくするためには厳罰化をと考える。しかし安易に厳罰化してしまうと、いったん罪を犯したときに失うものが多すぎる。そうなると刑務所を出ても社会復帰できず、結局罪を重ねてしまいかねないということだ。

人は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かないとよく言われる。そうだとしてもそこで立ち止まらないのが大切で、そこに人間の理性と知性があるのだな。

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