いまの将棋プログラムは強くなりすぎて、たくさんの素人にとってちっとも楽しくない、という話にからめた記事を読んだ。
ようは現在の将棋ソフトは強すぎるのだ。そもそもローエンドのほうが市場はでかいという大原則を思い出して欲しい。ローエンドのニーズはいったいなんなのかをきちんと考えないまま、ともかくハイエンドのさらに先を目指して突っ走っているのが現在の状況だ。この方向性で将棋ソフトを作っている限り、早晩オーバースペックに陥ってしまうだろう。というかもう既に陥ってしまってねえかと思う。
I 慣性という名の惰性 I - 将棋ソフトの方向性は間違っていると思う件
引用した場所は将棋プログラムについての部分だけれど、元の記事は「イノベーションのジレンマ」的に将棋と将棋プログラムを考えていて、長いけれどとても面白い。
ブックマークのコメントにはこんなものが。
はてなブックマーク - I 慣性という名の惰性 I - 将棋ソフトの方向性は間違っていると思う件
- 2006年11月01日 Nao_u 少し前にレベルを下げたCPUと対戦していて、「さあこれから詰めるぞ!」と思った瞬間に「17手詰めで投了です」といわれて勝手に終了されたときには唖然とした。
17手詰め! 将棋プログラムは、なんかとんでもない世界へ行ってしまっているようだ。
そしてビデオゲームも、そういう歴史を何度もくり返しているなあと思ったのだった。
シューティングゲームが素人に遊べなくなっている、という話は昔から何度も出てきて、そのたびにアンチテーゼとなるタイトルも登場してきた。たとえば「究極タイガー」であり「雷電」である。弾幕の概念をひっくり返した「サイヴァリア」も入れられるかもしれない。一方、覚えゲー度が高くて素人お断りな「レイディアントシルバーガン」とか「斑鳩」のような「マゾゲー」(マゾな人向けのゲーム)も根強く人気がある。
格闘ゲームも同様で、ストリートファイターII、ダッシュ、ターボ…と進んでいくうち、登場キャラクターはやたらと増えるしキャンセル、コンボ、超必殺技、ジャンプガードと、コアゲーマーのニーズに合わせて必要なテクニックを積み上げていった結果、果てしなく素人離れしている。
音楽ゲームも、最初に「ビートマニア」が出た頃はのどかだった。音楽ゲームはルールが単純であり究極の「覚えゲー」であるから、基本的に単に時間をかけるほどうまくなっていく。その果てに、うまい人のプレイを見ても「よし、自分も頑張ろう」とは思えず、「こんなにできるようになるなんて無理!」になってしまうのだった。
うまい人にもそうでない人にも、それぞれなりに楽しいゲーム。これがなかなか難しい。
そこを調整するため、「ランク」の概念を取り入れているゲームもある。うまい人には歯ごたえのある敵を用意し、そうでない人にはゆるめの敵を用意する。
しかしそれもうまくいかないことがある。とてもうまいプレイヤーは、逆に自分をうまくないプレイヤーであるかのように見せかけることができるからだ。ランクを導入しても、その運用はやっぱり難しい。
このあたりを将棋プログラムにあてはめるなら、高度になるほど「うまく手加減できる」プログラムになればいいんではないかなー。
さまざまな「対戦」において、中途半端に強い人は手加減ができず、全力で倒してしまって相手の向上心を奪ってしまったりする。今の将棋プログラムは、まだそういう段階なのではないか。達人になるほど、素人をうまくあしらうことができる。将棋プログラムもビデオゲームも、そういう境地を目指してほしい。