幻想の電車男

【元記事:幻想の電車男d:id:manpukuya:20040604:trainman

チマタで話題の「電車男」を、梅田望夫も紹介した(「『電車男』に見る2ch文学の可能性」)。

電車男の話題で気になっていたのは、「この話は映画化/ドラマ化したらいいんじゃないか」という意見がときどき出てくることだ。梅田望夫も「これは間違いなくテレビドラマの原作にはなるのではないか」と書いている。これが不思議なのだ。

電車男」のまとめログはとても面白い。内容もさることながら、2ちゃんねるの書き込みにある独特のドライブ感がすばらしい。ログの取捨選択、ときどき入るナレーション風のリードも絶妙だ。これをほかのメディアに変換するのは難しいと思うし、わざわざメディア変換をしなくてもログを読めば楽しめるのではないか。

(物語メディアの変換パターンには「映画化」「ドラマ化」「アニメ化」「マンガ化」「ノベライズ(小説化)」「ゲーム化」といろいろあるが、ここではまとめて「メディア変換」としよう)

物語を別のメディアに変換して再摂取したい、という気持ちは、どこから出てくるのだろうか。

いやそりゃ、好きな小説が映画になったり、好きなマンガがアニメになったりと、好きなメディアが別のメディアに変換されたら、自分だってそれはやっぱり見たり読んだりしたいと思うし、実際そうすることもある。でも、「これが好きだからメディア変換してほしい」と思うことはまずなく、基本は「メディア変換されたのなら摂取してみよう」という受け身のスタンスだ。

すでに感動した物語を別の形式で感動し直したい、ということだろうか。変換元への印象は人それぞれで、自分が受けた感動もそのまま変換されるかはわからないのに? ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が映画化されたら『ブレードランナー』になっちゃうことだってあるのに?

クリエイターが「自分なりの技法で、この物語を表現し直したい」と考える気持ちならば理解できる(同人の二次創作も含めて)。自分の思う通りにメディア変換できるのだから、自分の感動を自分の方法で変換できる。でも単に、「この物語をメディア変換してほしい」と願う気持ちの出どころがよくわからない。

自分が感動した物語を各自の感動の枠に入れ、メディアの形式を変えつつ何度も摂取したいという欲望だろうか。それにしては実現される保証が低く、不用意だと思う。

ところで、電車男氏は物語的にはゴールを迎えてしまった。すると、彼が2ちゃんねるの該当スレッドに書き込むと、かつて自分を励まし、相談に乗ってくれた人々から逆に疎まれるようになっていったらしい。これも興味深い。「いつまでも幸せに暮らしました」という大団円を迎えた人間を「卒業」させてしまい、排除する圧力。これも、受け取る側が理想とする物語に押し込め、従わせようとする欲望ではないだろうか。

全然まとまりがないけれど、いったんここまで。