「毎度JRをご利用いただきありがとうございます。お客様にお願いいたします。車内での携帯電話、PHSのご使用は、周りのお客様のご迷惑となることがあるばかりでなく」
ここまで聞いて、「この車内放送はなんだか違うな」とは思ったのだ。携帯電話だけでなくPHSも挙げる律儀さ。さらに、ご迷惑となる「ことがある」ときた。よく聞くパターンは「お客様のご迷惑となりますので」で、これはその決めつけ具合が気に入らなかったのだが、今日の車内放送はあくまでソフト、しかし着実に、携帯/PHSオーナーの逃げ道を絶とうとしている。さて続きは、
「…ご迷惑となることがあるばかりでなく、医療機器の動作に深刻な影響を与えることがございます」
おお、すごいぞこれは。「医療機器」はたぶん心臓用のペースメーカーのことで、確かに「深刻な影響」があることはわかっているが、そのことを指摘する車内放送は初めて聞いた。かなり周到な「お願い」で、いつも聞いている車内放送と比べて説得力がある。
さて。ではこの車内放送、普段聞く車内放送と比べてどの程度効果が違うか。結論からいえば、効果に大きな変化はないのではないかと思う。
そもそもこの車内放送は大きなお世話だ。こんなこと、気を付ける人は車内放送で言われなくても気を付けるし、気にしない人は車内放送で言われても気にしないはず。つまり、この放送は誰に対しても無意味なものなのだ。…と、この放送が始まった当初は思っていた。ところが日がたつにつれて、車内での携帯電話に関する空気が明らかに変わってきた。「電車内での携帯電話は良くないことだ」という雰囲気ができてきたのだ。その結果、気にしない人も気にしないなりに気にするようになったというか、気にしない人の中にも「自分は悪いことをしている」という自覚が生まれてきた。継続は力だ。現在では、堂々と電車内で携帯電話を使う人は確かに減ったといえる。
だがしかし、これは客が判断し学習した結果として出た結論ではない。
電車の車内放送はある種「お上」のような権威だ。客は車掌に「言われっぱなし」なのだ。客は毎日同じ事を聞かされ、判断力を失い、権威としての車内放送をなんとなく受け入れてしまう。その結果「誰になぜ迷惑なのか」を考える余地を持たぬまま、誰でもどんな状況でも携帯電話を悪とする雰囲気ができあがってしまった。あまり混んでいない電車内で、携帯電話を使って家の留守電をチェックしていた(=こちらからは声を出さない)人が、携帯電話を使っているという理由で注意されたという話も聞いた。この状況、果たして誰がどんな迷惑をこうむっていたのか知りたいところだ。
車内放送が、上のような「雰囲気作り」としてしか作用していない限り、実際にどんな言い方をしても五十歩百歩で、客に伝わるのは結論のみ、つまり「電車内での携帯電話はヨクナイらしい」というぼんやりした印象だけであろう。だから注意する側は、その場の状況をよく判断せぬまま、トニカク携帯電話はダメナノダという行動に出てしまうのだ。携帯電話を使う人にも、それを周囲で見守る人にも本当に必要なのは、今その場で携帯電話を使うことが、周囲の迷惑になるかどうかを判断する能力と、判断結果をどうやって相手にわかってもらい、またどうやって相手から譲歩を引き出すかという交渉力のはずなのに。
と話が進んだところで、最後にアホらしいオチを。携帯電話に関する車内放送が強い調子に変わったのは、利用客から「もっと厳しく規制せい」という声が多かったかららしい。客どうしの問題をJRにねじこむ客も客だし、それを受けて車内放送に反映させてしまうJRもJRだ。学級会で「誰くんは授業中うるさいので良くないと思います」なんて発言していい気になる子供と、それを受けて「授業は静かに聞きましょう」と言わずもがなのことをわざわざ朝礼で話す校長のようである。人に言われることをうのみにして、その受け売りばかりで自分で考えず、その結果自分の考えを相手に伝えるすべを学習しないまま生きていては、人々の交渉力は低下するばかりだ。このままじゃまずいんじゃないかなぁ。
99/04/05 (Mon.)−超気合車内放送
【元記事:夜の記憶−99/04/05 (Mon.)−超気合車内放送】