早稲田の大学院がやっている、科学技術ジャーナリスト養成プログラム「MAJESTy」が主催の、森達也の講演「ドキュメンタリーとジャーナリズム」に行ってきました。
まず、森氏が作った「ドキュメンタリーは嘘をつく」を上映、続いて上記の演題で講演という流れ。
(番組については「メディアリテラシー」を参照)
講演の内容を、メモをもとに自分なりにまとめてみます。念のため:※以下の文章は、講演者の発言や意見を筆者(私)が聞き違えたり、誤解したりして伝えている可能性があります。
このような番組の企画が立てられたいきさつ
政府から、「メディアリテラシーについて番組を放送せよ」という要請があり、「テレビ東京はちゃんとやってますよ」のポーズ。誰に作らせるか、というので自分(森達也)に依頼があった。
ファシズムとメディア
全体主義が台頭した1910年代から30年代は、映像(映画)や通信(ラジオ)が発達した時代でもある。
「リテラシー」は日本語で「識字」であるが、映画やラジオは、文字を読めなくても受け取れる初めてのメディアだった。
映画やラジオは、ファシズムのプロパガンダに使われた。これらのメディアがなければ、全体主義は生まれなかっただろう。
ゲッベルスももともとジャーナリストだった。
最初のドキュメンタリーは「フェイク・ドキュメンタリー」だった
演技を撮影し、ドキュメンタリー風に仕上げた映像作品を「フェイク・ドキュメンタリー」という。日本ではなじみがないが、欧米では一般的な手法。
世界最初のドキュメンタリー映画とされる作品は、イヌイット(エスキモー)の暮らしぶりを伝えるものだった。そこに出てくる家族は、実は本当の家族ではなかった。夫役、妻役、子役が選ばれ、それっぽいことをする様子が撮影された。彼らの家である「イグルー」内の撮影も、そのままでは暗くてできない。そこでイグルーを半分に切り、明るさを確保して撮影した。
つまり、最初のドキュメンタリーは「フェイク」だった。映画のクレジットにも、そのことは記載されている。
今の「ドキュメンタリー」が「仕込み」でないと理解されていることとはずいぶん違う。
1970年代のドキュメンタリーでは「仕込み」が普通に行われていた
田原総一郎が作ったカルメン・マキのドキュメンタリーで、「同棲相手」として出てきた男性は本人ではなかった。
「まっくら」という、筑豊の炭鉱を採り上げたドキュメンタリーで、主役の夫婦は俳優だった。斜陽産業の状況をよく伝えており評価されているが、作りは「フェイク」といえる。
沖縄の干ばつを扱ったドキュメンタリーでは、「力尽きた牛が、ついに波打ち際で倒れる」というシーンがある。その牛はスタッフが買い、血を抜いて弱らせ、テグスで引いて倒したのを撮影したものだった。
「中立公平」「不偏不党」の自己矛盾
偏り具合を測る基準が決まっていないから。
「中立公平」「不偏不党」の基準は、自分の思いにいかに忠実に作るかという主観で決まる。でもテレビはそういうことを認めたがらない。特にニュースは、主観が入っていることを認めようとしない。
実際は、どんなニュースをどう採り上げるかという主観が入っている。
ジャーナリズムは中立公正を「目指す」ものだが、代わりに「正義感」が表出することも
「中立公平」を実現できなくても、それを目指すのがジャーナリズムとして大切なこと。しかしそのことを忘れ、あるいは理解しておらず、正義と勘違いすることがある。
その結果、記者会見で社長を怒鳴りつけるようなことが起きる。自分たちは社会の代表であり、社会正義を実現するべきであると誤解している。
ドキュメンタリーは悪辣だ
「放送禁止歌」では、特定の曲の放送禁止を誰が決めているのかを調べる構成になっている。しかし作る側(森達也)は、実は結論を知っていた。放送禁止は誰も決めていないというオチはわかっているが、それを知らないふりをして取材している。

- 作者:森 達也
- 出版社/メーカー: 知恵の森
- 発売日: 2003/06/06
- メディア: 文庫
リモコンの登場でテレビは変わった
チャンネルを変えるのに、コタツから出てテレビに近づく必要がなくなった。その結果、リモコンでチャンネルを変えられてしまわないよう作らなくてはならなくなった。
刺激的で、わかりやすく、単純化、簡略化が進んだ。
その一例が先日の、妻が夫を殺して死体を遺棄した事件で、犯人を「セレブ妻」などとわかりやすい言葉で表現すること。
一言で言ってくれる人に頼もしさを感じてしまう。
拉致問題と科学ジャーナリズム
横田めぐみさんの遺骨がDNA鑑定され、本人のものではなかったと結論された。それを根拠に、日本の北朝鮮への経済制裁が強まった。
その後、科学雑誌「ネイチャー」が、鑑定結果に疑問を示す文章を掲載した。20年も前に埋められた人の遺骨をDNA鑑定しても、信頼できる結果は得にくいという。記事の中では鑑定団長の大学教授もインタビューされ、その中で「鑑定結果に自信を持っていない」と発言している。
しかし、このことを報じたのは毎日新聞くらいだった。
先の教授は警察の科学捜査研究所の所長になってしまったため、今はもう取材ができない。
報道する側にもサイエンスへの意識が必要。
それでも、ドキュメンタリーは世界を多角的に見せることができる
世界を多角的に見せるのは大変で、とても長い番組になるという考えがある。
(タノン・サッタジャールウォンの「A Short Journey」という、5分程度の短い作品を上映。2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品されたもの。→「YIDFF: 2003: 審査員コメント」:アジア千波万波特別賞)
(タイの街角。青年が7歳の少年と、出生証明が必要だという話をしている。「行こう」青年が子供に声をかける。父親の返事は曖昧だ。子供は父親に聞く。「僕にここにいてほしい?」父親は「自分で決めろ」。青年は携帯電話で話をする。「酔っているときに連れて行くと、シラフに戻ったとき面倒になることが…」。彼はソーシャルワーカーで、子供を学校へ連れていこうとしているのだ。それには父親の確約が必要だが、父親はいつも泥酔している。子供が泣きながら父親に近づこうとする。父親は棒を振り上げ「どこへでも行ってしまえ」と怒鳴る。子供はさらに泣く)
タイでは未就学児童が増えている。この5分間の作品は、そのことを端的に伝えている。
「この作品はフィクションです」というエクスキューズ
以前、ドラマを見て本当のことと勘違いした人が事件を起こした。「フィクションです」のテロップは、同じケースがあったときのためのエクスキューズ。
それでもいろいろな指摘が来ることがある。
「メッキがはがれた」という表現をナレーションで使ったところ、めっき工場の人から「今のメッキははがれない」と抗議が来たという。
花火大会が終わったあと、歩道橋で「将棋倒し」があったときも、将棋連盟が「その表現はやめてほしい」と声明を出した。
メッキの件はともかく、「将棋倒し」についてはテレビ局は「バカなことを言うな」と電話を切ってしまえばいい。「将棋倒し」は慣用表現であり、その言葉で将棋そのもののイメージが悪くなるはずがない。
ドキュメンタリーとジャーナリズムの境界線
いわゆる「やらせ」「仕込み」は、ドキュメンタリーでは可、ジャーナリズム的には不可。
こういう仕事では「自分を裏切らない」ことが重要。ゴルフと同様、自己申告の世界。
簡単にチャンネルを変えられてしまう今は、「テレビでドキュメンタリーが成立するのか」を議論する段階まできている。
いくつもの「真実」と、たった一つの「事実」
テレビで放送される嘘は見抜けないので、そのことを前提にしつつテレビを見るべき。
「真実」は主観的なものであり一つではない。その場にいる人それぞれに真実がある。
「事実」は一つであるがそれは神の視点とでもいうべきもので、人間が事実を理解することはまず無理。
メディアは嘘をつかない
テレビには、明快な嘘をつく度胸がない。言い訳できるように作る。誰がどう見ても嘘、ということになったらクビになってしまうから。
写真は想像力を喚起し、ビデオは人を受動的にする
ベトナム戦争の報道では、写真が強かった。川を渡る母子が肩まで水に漬かっている写真、将校がベトナム人青年のこめかみを撃ち抜く写真。写真はビデオよりも情報量がずっと少ない。そのぶん見る側がその前後や、フレーム外になにがあるのかを想像する。
ビデオの映像は臨場感が増すが、見る人を受動的にする。フレーム外のものまで見たと勘違いしてしまいやすい。メディア技術の発達が人の想像力を奪う例。
テレビをがんじがらめにしているもの
民放は免許制であるため、政府の縛りがある。また視聴率という、視聴者からの評価の縛りもある。さらに、スポンサーに逆らえないという縛りがある。これらによって、民放は民意に背けない。
民意が世論を決めてしまった歴史
戦前、朝日新聞など主要新聞社はどちらかといえば非戦派だった。
ライバル新聞との購買者獲得競争の中、在郷軍人の不買運動が起きたり、戦意を高揚する記事を載せたらたくさん売れたりといった事情があった。結果的に、新聞には人が読みたがる記事=戦争を肯定する論調が増えていった。
民意に左右されないのがNHKの役割
NHKは市場原理から解放された唯一の局であるはずで、なくなったら困るのは私たち。
アメリカには国営の「Voice of America」という局がある。そういう局が放送する内容は、視聴者も「国営放送の言うことだから」と考えながら見る。
ネットについて
調べものには便利。以前は「とりあえず大宅文庫か国会図書館」だった。
しかし信頼性を担保しないので、頼りすぎると間違いを広めてしまうこともある。ナチスのゲーリングがニュルンベルク裁判で「なぜこんな戦争を起こしたのか」と聞かれて「民衆の危機意識をあおれば、戦争を起こすことはたやすい」と発言したというエピソード。ネットで調べるとたくさん言及されている。
ところが専門家に聞いたりして調べてみても、ゲーリングがこういう発言をしたという記録は出てこない。都市伝説のようになってしまっているようだ。自分(森達也)自身もこの話を原稿に書いたことがあるので、片棒をかついでしまったと反省している。
YouTubeについて
テレビは一度放送されると簡単には再放送できない。そこが番組批評を難しくしている。
(自分の作品がYouTubeにアップされていることについて)別にかまわないが、できればもう少しいい画質で見てほしい。
(講演後個人的に聞いた話:「A」は一部だけがYouTubeにアップされたことがあった。「どうせなら全部アップしてほしい」と思ったとのこと)
見てほしい人に伝わらないもどかしさ
「A」「A2」を批判する人の多くは、実際に見てくれていない。届いてほしい人に届かないもどかしさがある。
講演の感想
「ドキュメンタリーは嘘をつく」はネタは単純ながらとても面白い作りなので、ぜひ皆さん見てほしい。YouTubeにあるとかなんとか?
伝えたい人に伝わらない、という話題は、質疑応答の中でこちらからニセ科学などの話でふってみた。「『水からの伝言』はウソなんですか?」と逆に聞かれたのは驚いたが、道徳の授業で使われているケースもあると話したらそこにとても興味を持ったようだった。
上映と講演、質疑応答で3時間弱、とても濃密でいい時間でした。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』について、この日記での言及
- 「きになる本『ドキュメンタリーは嘘をつく』」(d:id:Imamura:20050317:book)→簡単な感想:d:id:Imamura:20050426:book
- 「森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』テレビ東京で明日早朝放送」(d:id:Imamura:20061230:doc):昨年暮れの再放送についての言及
文庫版(たぶん)
筆者が集めた関連リンク
- この講演のほかのレポート
- 「繰り言 - ドキュメンタリーにも、科学にも、リテラシーは必要」(d:id:hottokei:20070113:p1)
- ドキュメンタリーが事実を伝えているかについて、「ダーウィンの悪夢」をめぐって
-
- 「愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 映画『ダーウィンの悪夢』に関する「嘘」について」(d:id:lovelovedog:20070104:akumu)
- 「愛・蔵太の少し調べて書く日記 - ドキュメンタリーはノンフィクションなのかについて映画『ダーウィンの悪夢』で考える」(d:id:lovelovedog:20070105:docu)
- 「P-navi info : 日記:恣意的な切り取り方について」
- 「P-navi info : NHK-BS 『ガザに死す』を見て」
- 「正義感」の暴走の関連
- 「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13」