先生が、別の生徒の日誌を間違えて入れていたことに関して、つけた付せんにどう書くかの話。
「『○○ちゃんの日誌が入っています』と書くと、ちょっと冷たい、ぶっきらぼうな感じがするけど、『入っていました』と過去形にすると、ちょっとソフトな表現になる。最近、お店で『○○でよろしかったですか』という言い方が多いのは、もしかしてこの『過去形効果』のためじゃないだろうか」。
(中略)
- 『○○ちゃんの日誌が入っています』→あなたは○○ちゃんの日誌を入れました
- 『○○ちゃんの日誌が入ってました』→私は○○ちゃんの日誌が入っているのを見つけました
つまり、間違いの発生の原因が相手にあることはお互いに了解していつつも、その「明言」を避けているわけだ。
身辺メモ: 時空をバイパスする迂遠な表現としての「よろしかったですか」語
なるほど! この手の「間違った日本語」が膾炙するのは、言う側にそう言いたくなる理由があるからだとつねづね考えていた。今までのように「よろしいでしょうか」と言えばすむところを、わざわざ「よろしかったでしょうか」と言うようになったのだから、そう言いたくなる動機があるはずなのだ。
私たちは言葉を使うとき、情報や自分の心持ちをなるべく正確に伝えると思う言葉を選んでいる。その場で使うのに一番ふさわしい言葉が選ばれる。
そして、新しい言葉や、今までの文法からは間違った日本語であっても、それがちょうどよいと考えれば使うようになっていく。さらにその言葉を見た人が、「おお、今使うのにちょうどいい表現だ」と思えば、その言葉を使うようになっていく。
「よろしかったでしょうか」とセットで扱われることが多い「〜円からお預かりします」も、相手との距離感をちょうどよくとれる表現なのかも。
文法の正誤とはちょっと違うけれど「orz」などもそうで、その場の気分を言葉にすると「orz」が一番しっくりくると感じることがある。「orz」という表現を知っていて、「orz」としか表現しようがないならば、やっぱり「orz」と書きたくなる。
こうして「orz」だの「キター」だの「DQN」だのといった、新しい言葉・新しい意味が増えていくのだった。
(「DQN」「萌え」などは、ニュアンスはわかっていても言葉では説明しづらい。そういう観点から、多くの人がその言葉を使うようになった理由を考えるのも面白そう)