原発は人間社会の手に余る

BS1の「BS世界のドキュメンタリー」で「チェルノブイリの真相〜ある科学者の告白」を見た。BBCが2006年に制作した「ドキュメンタリードラマ」で、チェルノブイリ原発事故のいきさつを再現ドラマ仕立てにしたもの。

これが壮絶な内容で、あまりのことに見ていて頭がくらくらしてきた。

チェルノブイリ原発福島原発とさまざまな点で異なるから、チェルノブイリで起きたことが福島でも起きたわけではない。たとえばチェルノブイリ原発は格納容器を持たない構造であり、爆発事故でいきなり炉心が外気に触れてしまった。夜間ヘリコプターで近づいた調査員が、青白い光を放つむき出しの原子炉を見ておののくシーンは強烈だ。

この番組でわかるのは、科学的に正確な情報が出てきても人間側の都合や思惑でねじ曲げられ、事態を悪化させてしまう場面がいくつもあったことだ。

「制御室内の線量計は3.6レントゲンとありました」「3.6か、そう高くないな」「いえ、目盛りが3.6までしかなくふり切れているのです」「…ならば3.6かもしれない。上には3.6レントゲンと報告する、いいな」…そしてその後わかった数値が「15000レントゲンです!」

Wikipediaによると「人間が500レントゲンの放射線を5時間程度の短時間に浴びると致命的である」という。

原発の所長が「私は今年勲章をもらうことになっていたので、面倒を起こしたくなかったのだ」と言うシーンがある。上層部が「情報公開すればパニックが起きる。軍にはマスクや防護服を使わせるな」と指示する場面も出てくる。

人間がなにかを行い、実績を上げたり失敗したりした結果は、給料や地位に反映される。そういうふうに運営されているのが今の人間社会だ。できる人とできない人で給料が同じだったらできる限りさぼろうと思うから、成果が評価に影響するやり方はたいていの場合うまくいく。そうやって人はやる気を出し、進歩してきた。

しかしその運用原則のもとで原発を運転して事故が起きたら、根拠のない楽観、過度な矮小化、事実の隠蔽などが行われてしまった。そりゃそうですよね。気持ちはよくわかります。

でもそういう、人間の人間くささを原発はくみとってくれない。厳密な物理法則にのっとって、淡々と放射性物質放射線を出すだけだ。それは原発が意地悪をしているわけではなく、単なる原因と結果でしかない。それが人間の社会に取り返しのつかないダメージを与えるものであったとしても。

となると、原発を運用しているのが人間であること自体が危険だということにならないか。

チェルノブイリでは原子炉の火災を止めるために、ホウ酸と砂の入った袋がヘリから投下された。その量は5000トン。猛烈な放射線が渦巻く原子炉の上空に止まったヘリから人間の手で、次々と砂袋が投下される。作業は数千回くり返された。また地下のプールから水を抜くために、爆発した原子炉の直下で潜水作業が行われた。そうしなければ、「200平方キロが吹き飛び、人が100年住めなくなる」規模の水蒸気爆発が起きる可能性があった。決死隊が軍の中から組織され、最悪の事態は回避された。

祖国と市民を守るために自らを犠牲にする。その使命感と勇気はすばらしい。しかしそれを発揮しなければならない状況に陥ったのも、また人間が原因である。

チェルノブイリ事故ではたくさんの人が放射線障害で亡くなった。放射線を一度にたくさん浴びた人間の体になにが起きるのかは、NHKスペシャル「被曝治療83日間の記録」を本にした『朽ちていった命』で詳しくわかる。

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

先日、同じ「BS世界のドキュメンタリー」で「地下深く永遠に」という番組を見た。原発の廃棄物を10万年もの間保管する、フィンランドの施設の話。

ここで「楽観的な好奇心、前向きな鈍感さこそ、人間がここまで繁栄した理由のひとつかもしれない」と書いた。確かに人間の人間くささが人間の世界を発展させてきたともいえる。

しかし原子力は、人間が使う限り絶対の安全はなく、何かが起きたときの被害は計り知れない。

原発を、感情を持たない冷徹な人間が設計し施工し運営するなら夢のエネルギーになるかもしれない。しかしそんな人間はそういないし、その同僚や上司や家族、さらにそのまた同僚や上司や家族が人間的な人間だと、そこが弱点となるだろう。

現在の技術で原発を問題なく使えるのだとしても、運用に人間が関わる限り危険が伴うのだと感じた。