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脚本家、橋本忍にきくハイビジョン特集

映画に賭(か)ける〜脚本家・橋本忍
脚本家・橋本忍、89歳。黒澤明監督の『生きる』『七人の侍』や『砂の器』など日本映画を代表する傑作を書いてきた。映画に賭け続けた60年の人生と創作の秘密に迫る。
NHK BSオンライン

本放送のときにたまたま見てこれは面白いと思い、再放送の前にこの日記で紹介をと思っていたら今日の午後にもう再放送されてしまったー。すいません。しかもそんなだから、自分でも録画できなかったという。

橋本忍の生い立ちから脚本家になるまで、そして数々のヒット作を苦しみつつも生んでいく過程を、2時間かけてたっぷりと語ってもらう。

ふともらした「羅生門」の言葉が傑作を生んだ

(以下は番組を見た記憶をもとに書いています。間違っているところがあるかもしれません)

1946年、橋本忍の師である伊丹万作が亡くなった。伊丹から「橋本の面倒をみてやってくれ」と頼まれていた伊丹夫人は、橋本に佐伯清監督を紹介する。同時に、芥川龍之介の短編をもとにした「藪の中」の脚本も託された。

この脚本に目をつけたのが黒澤明である。もともと短編映画の脚本だった「藪の中」を長編にするアイデアはないか、と問われた橋本はとっさに、「『羅生門』はどうでしょう」と考えなしに口走ってしまう。黒澤は橋本の焦りを知らぬまま、「では『羅生門』を加えて書き直してくれ」と脚本を依頼した。

当時のことを橋本がふり返って言う。「なぜうっかりあんなことをしゃべってしまったのか。『藪の中』と『羅生門』がうまくつながらないことはわかっているはずなのに」。

それでも構成の折り合いをつけて、完成した脚本で撮影された映画「羅生門」はベネチア映画祭のグランプリを受賞した。黒澤明が「世界のクロサワ」として知られていく第一歩となった。

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七人の侍」はこうして生まれた

(以下は番組を見た記憶をもとに書いています。間違っているところがあるかもしれません)

「生きる」に続いて黒澤が提案した企画は、「侍の一日」というものであった。

ある侍が朝起きて、登城し、昼過ぎにささいなミスを犯し、責任を取るため夕方に切腹するという物語である。映画の主眼は、当時の武士の生活を極限まで細かく、正確に再現しようというものだった。

しかし橋本が上野の図書館にこもり、当時の日記や資料をどんなに調べても、「侍の一日」に役立つ記録は出てこなかった。それらの資料には特別なできごとが書いてあるばかりで、武士が一日二食だったのか、三食だったのかすらわからない。

これは「事件の記録」であって、「生活の記録」ではない。

「侍の一日」は映画にできないと痛感した橋本は、独断で企画の中止を映画会社に申し出てしまう。烈火のごとく怒る黒澤に、橋本は言う。

「黒澤さん、あなた一日に何回食事をしますか」

「俺は三食だ」

「でもそういうことをわざわざ記録したりはしないでしょう。江戸時代の武士も同じなんです。わからないことが多すぎて、脚本にならないのです」

「……」

その数日後、橋本は黒澤に呼ばれた。黒澤は言った。

「日本の剣豪の武勇伝を集めて、一本の映画にできないか」

これが「日本剣豪列伝」の始まりだった。

剣豪の記録を集めた本が、江戸時代に出版されていた。ここからエピソードを取り出し、つなぎ合わせて物語にまとめていく。しかし橋本は、第一稿を書き終えるころにはすでに、企画の主旨に強い違和感を感じていた。

第一稿を黒澤に見せると、彼も言った。「橋本よ、これは…だめだな。クライマックスをつなぎ合わせても仕方がない」

企画はまたしても潰れてしまった。

改めて、武士の生活を調べ直すことになった。「武士のうち、旗本でない浪人はどうやって生活を立てていたのだろうか」という疑問がきっかけだった。

制作の本木荘二郎は、橋本が「侍の一日」の資料集めに通い詰めた、上野の図書館へ向かった。浪人の生活状況を調べるためである。

数日後、調査を終えた本木は黒澤、橋本と打ち合わせを持った。

さて、浪人の武士はどうやって糧を得ていたのか。

城勤めをしない武士は、一文なしでも旅行をできた。村や町にある剣の道場へ出向き「お手合わせ願いたい」と申し出る。本気ではない道場破りのようなものだ。それが終われば夕食がふるまわれ、ひと晩をしのぐことができる。朝、出立の際には干し飯をもらえた。

では、道場がない場所ではどうするのか。武士は寺や神社へ向かう。寺社は旅人を迎え入れ、ひと晩面倒を見る場所として機能していた。夕食が出るし、翌朝出立のときにはやはり干し飯が出た。

さらに、道場も寺社もない場所ではどうするのか。

そういう時は、たとえば近隣の農村へ向かい、ひと晩か数日間の夜警を申し出る。契約が成立すれば、その間は米の飯を好きなだけ食べられる。そして村の警備を終えて旅立つときは、これも干し飯をもらう。

黒澤がもらした。「なるほど…。橋本」

「はい」

「これはいけるな」

「ええ、いけますね」

本木が引き継ぐ。「何人かの侍がチームを組んで、野武士から農村を守る。侍は何人がいいか…8人や9人では多すぎるし、4、5人では少ない。7人だ。『七人の侍』でどうだ」

こうして黒澤、橋本、それに共同脚本の小國英雄という3人が、熱海の旅館にこもったのだった。

橋本は、「七人の侍」の脚本を書き始める前に、「侍の一日」と「日本剣豪列伝」を企画していたことが役に立ったという。

「侍の一日」からは、武士の暮らしのディテールをある程度つかめた。「日本剣豪列伝」で知った剣豪たちの生きざまや信念は、「七人の侍」に登場する武士、たとえばリーダー役の勘兵衛(志村喬)、「剣豪」の名にふさわしい久蔵(宮口精二)などのキャラクターへと昇華されていった。

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砂の器」は生涯ただ一度の大ばくち

(以下は番組を見た記憶をもとに書いています。間違っているところがあるかもしれません)

橋本は、競輪が好きだった。かつて黒澤に「君は映画界一の博打打ちだな」と評されたほどだった。

砂の器」は、1958年公開の「張込み」に続けて企画された。ともに、松本清張の小説を原作にした作品である。

原作の新聞連載中に脚本の依頼を受けた橋本であったが、3ヶ月で終わると聞いていた連載は延びに延び、ついに半年に及んだ。

橋本はそんな中、共同脚本を勤めた山田洋次とともに迷っていた。どう脚本にまとめるか、そのアイデアが出てこない。ついに物語の舞台のひとつである、島根県亀嵩(かめだけ)へ二人で取材に行くことにした。

片田舎の亀嵩で着想を得た橋本と山田は、上野へ戻るとすぐに近くに投宿し、脚本の執筆を始めた。

砂の器」を脚本にまとめるにあたって橋本は、小説ではただ「その期間の二人の行方はわかっていない」とのみ記されている、父子が放浪する三年間に強い興味を抱いた。

「二人が何を思いながら放浪生活を送ったのか。そこを理解しなければならないと思った」と、番組中で橋本は語っている。

そして橋本は、小説「砂の器」の構成を大胆に組み替えて脚本にした。

「競輪ではね、ずっと後ろのほうについていて、残り一周半を知らせる打鐘ジャンが鳴ったら外側へ急に上がっていき、全体を見られる場所から一気に先頭へ仕掛けていく戦法があります。これは何度も使える方法じゃない。脚本家として、一生に一度の大ばくちを仕掛けたのが『砂の器』だったんです」

橋本の脚本では、2時間20分にわたる映画の冒頭から残り40分まで、ある殺人事件の捜査が淡々と描かれる。そして、登場人物の一人である若手作曲家がついに完成させた『ピアノと管弦楽のための「宿命」』のコンサートシーンが始まると、一気にクライマックスへとなだれ込んでいく。

壮麗なコンサートのシーン、捜査会議が真相を突き止める緊張感あるシーン、そして巡礼姿で放浪を続ける親子のシーン。3つのシーンが時代と場所を越えながら、交互にたたみかけられていく。橋本が今まで書いたことのない、最後にすべてを収れんさせていく脚本だった。

橋本はこのシーンを、人形浄瑠璃にたとえている。

浄瑠璃では、正面の舞台でものいわぬ人形が演技をし、上手(観客から見て舞台の右)に浄瑠璃語りと三味線が配置される。

人形、語り、三味線。この3つ要素を当てはめる。すると三味線はコンサート、浄瑠璃語りは刑事が熱弁をふるう捜査会議、そして一言のセリフもなく、沈黙のままただ放浪を続ける親子が正面の人形となるのだった。

しかしこの「賭けに出た」脚本ができたのち、「砂の器」がクランクインするまでは十年以上を待たなければならなかった。

当時の映画界は、配給会社が映画製作の主導権を握っていた。「砂の器」の脚本を松竹ほか、いくつもの映画会社へ持ち込んでもゴーサインが出ない。この脚本を映画化するため、ついに橋本は「橋本プロダクション」を創立、第一回作品として「砂の器」を製作し1974年にようやく公開、大ヒットさせたのだった。

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橋本忍の現在

上記作品のほか、「私は貝になりたい」「切腹」「日本沈没」「八甲田山」など、数々の名作を届けてきた橋本忍であるが、体調を崩して1980年代から映画界の表舞台から姿を消していた。

その後、体調の回復に合わせて「書き始めれば書き終わるまで書く」の信念で書籍『複眼の映像−私と黒澤明』(ASIN:4163675000)を書き上げた。

続いて、ただひとつ不満が残っている作品という「私は貝になりたい」の脚本を修正した。新脚本の「私は貝になりたい」は現在撮影中である。

まとめ

書いているうちになんか熱が入ってきて、やけに長くなってしまいました。番組はまたそのうち再々放送されると思うので、そのときにはまたお知らせしたいと思います。